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今月のエッセイ

2013.8.26 『北海道、道東自然観察行』浅井粂男


                                          

浅井写真   

浅井写真   

浅井写真   




 仕事がご縁で、出版社の方に同行し北海道標津町の虫類川支流横牛川へ自然観察のために行く機会を得た。
 初秋九月、厳冬の三月初旬、新緑の6月と3回の旅行で、厳しくもやさしい北の大地の様々な表情を垣間見た感想は、狭い土地に小さな家を構えローンの支払いにおびえながら、こせこせと独楽鼠のように働き、やっと生を全うして老境に入る私には、もしもう一度人生やり直せるなら、親から屈強な身体を戴き、広大な原野を駆け巡って牛馬とともに生きてみたい、そんな気持ちにさせてくれる場所が北海道である。
生涯の地を北か、南かで選ぶなら私は迷いなく北を選ぶ。

 道東の秋は早いはずなのだが九月下旬の虫類川は、まだ夏の緑を色濃く残す。
カツラ、イタヤカエデ、ケヤマハンノキなどの高木の林床にはオシダ、フキ、ミヤマカンスゲ、エゾゴマナなどが川岸に迫り、少し川を離れれば人の背よりも高いクマイザサが幾重にも重なって続く。
しかし川面は比較的明るくて、冷たい清流は人頭大の岩を縫うように下っていく。
案内のMさんからサクラマスの遡上とヒグマの食べカスなども教えてもらう。
産卵床の様子などは素人では確認できないが、開けたざら場にはいくつもあるらしい。
 斜里岳の東に位置するこのあたりは、エゾヒグマの生息地として知られる薫別岳にも近く、午後四時過ぎは危険とのことで川を上がったが、やさしいせせらぎを聞きながら、疲れた足を水につけ、スケッチをしていると、こんな心和む場所に人を襲うクマが出没するなど信じられない気がした。

 三月の道東は想像以上に厳しかった。
二日の羽田空港は、日本海側の空港へ行く便はのきなみ欠航で、中標津空港の朝の便も欠航となり正午過ぎの出発となった。
この日中標津空港だけは時々晴れだった。
午後三時、急いでレンタカーで九月の時の観察ポイントに向かう。
 出来れば雪に下の川にすむ生き物の冬籠りが観察したいなどと期待していたのだが、現場にたどりついてみれば川がない。
谷を埋め尽くす雪で、どこが川だったのかわからない。
がっかりしたが思い直してみれば、それでいい、これが厳しい自然の中に暮らす生き物たちにとって当たり前の環境なのだ。
静かな眠りの中で春を待つ生き物たちの邪魔をする権利私たちにはない。葉を落とした落葉広葉樹の湿った黒と雪の白のモノトーンの中にトドマツの濃い緑が印象的だった。
 今日は観察はできない、折角来たのだからと野付半島へオオワシを見に行こうということになった。
今までに経験したことのない寒さの中、流氷の上にオオワシを見た。
流氷は風の関係で沖に出ていたが岸辺にはかなりの量の氷が留まっていて、流氷に乗ることができる。
案内のMさんの話だと流氷が沖へ出たのはつい2,3日前とのこと。
クリオネのことを聞いたら、流氷が着岸しているときは、クリオネはペットボトルでもすくえるそうだ。
 午後四時、怪しい雲行きを北に見ながら降り出した雪に向かって北へ進む。
天候は急変し猛吹雪となってレンタカーを包む、“これがホワイトアウトですよ“とMさん。一メートル先も見えない。
地元のMさんの運転でやっと宿にたどりついた。
この夜一晩中吹雪いて六階建てとホテルも揺れるほどだった。
三月二日夕方からの吹雪で、道東では九人が雪の中で命を落としたとニュースで聞いた。
本当に危なかった。

 6月の新緑の道東は最高!!恵まれた天候も幸運だったがなによりも一番緑の美しい時期に尋ねることができた。
 女満別空港到着、朝8時20分というのもいい。レンタカーを走らせてしばらくすると。遠くに斜里岳が見えてくる。
知床連山の一つ海別岳を左に見て斜里岳の東すそ野を登り始める。
柔らかな黄緑色の落葉広葉樹の山裾を泳ぐように車は進む。
ところどころ残雪。峠らしい峠もないまま、いつのまにか川筋は虫類川にかわり、まもなく目的地の支流横牛川に到着する。
気がついてみればさきほどから一台もすれ違う車がない。
のんびりと静かな国道244号だった。
 取材地は三月とはまるで違うやさしい姿で迎えてくれた。
川辺の植生が詳しく知りたかったが、九月に来た際撮った写真に同行のNさんが種名を入れておいてくださったので、それをもとに沢山のクローズアップ写真を撮ることができた。
川の中の生き物にもたくさんで出会うことができた。
 春は子ずれのヒグマが川筋で、餌を求めて出没するとかで熊よけスプレーを持参することをMさんから進められ、バッグの横に縛り付けて準備していたが、さいわい使うこともなかった。
ただ、ものすごい数のブユに悩まされて。
刺されたときは痛くもかゆくもないがあとでとてもかゆくなった。

 取材を終わって宿へ向かう途中、虫類川本流が国道244号をかすめるように接近する場所があり、車を止めて見降ろした。
エメラルド色に白濁した雪解け水はすさまじい勢いで足元の断崖を洗い、何ものをも寄せ付けない怒りの形相で近づき、遠ざかっていく。
これもまた北海道の一つの姿か。
やさしさの中に激しさを秘め、厳しい自然との対決の果てに獲得した懐の深さを感じさせる。
私にとって道東は穏やかな癒しの空間であるとともに、人を寄せ付けない過酷な表情をも見せてくれる自然の教師でもあった。