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今月のエッセイ

『』たぐち としかず



 ずいぶん前に仲の良い先輩がポツリと言った。
 「最近は毎年ひとつずつ桜の名所を訪ねることにしているんだ」 風流や風情などとは無縁な旅行をするこの人。
花になんか見向きもしないし、花を目的に旅行などしない…はずの先輩の意外な言葉。
 「桜ってほんの短い間しか咲かないだろ。
 逃したらまた一年待たなくちゃならないんだよ!
 来年も見られる保証はないんだぜ!
 それを考えると涙が出てくるんだ」 そんな力説に「今度写真を撮ったら見せてくださいね」と社交辞令で返した。我ながらドライである。
 年を重ねると嗜好が変化するという。
趣味的な事から食べ物の好みまで、程度の差こそあれ、こういう変化は誰にでも訪れるようだ。
先輩の心の変化もそういったものなのだろう。
…と、人ごとのように考えてたら近年、私にも訪れた。「春だから桜を見に行こう!」という気持ちが。
「動物派」の私にとって「植物」は少々退屈なのだ。
積極的に「見に行く対象ではない」のである。
なかったのである。
 さて、京都に仁和寺という名だたる桜の名所がある。
春の境内には様々な種類の桜が咲き誇る。
中でも丈の低い御室桜(おむろざくら)は満開の時期を迎えると、それは見事なものだ。
たいていの桜の花は見上げる高さに咲くものだが、御室桜は目の高さに花のボリュームが集中する。
どこを向いても花に視界を遮られ、圧迫感すら感じるのだ。
 この仁和寺に「花びらが緑色の桜」があるというウワサを聞いた。
何でも、普通の桜よりも開花時期が遅いらしい。
なかなか時間が取れず、機を逃したと思っていた私にはうれしい情報だ。
今年の桜は仁和寺で見よう
いざ京都へ!
 広い境内の中から探し出すのはさぞかし骨が折れるだろう…と思っていたら山門近くに目的の桜はあった。
この桜、名を「御衣黄(ぎょいこう)」と言う。
思っていた以上に緑色が濃い印象だ。
花びらに葉緑体を持っているからだそうで、そのこと自体が大変珍しいのだとか。
事前に知らなかったら花を散らした後の新緑と思い、見逃すところであった。
 まったく世の中は広い。
まだまだ知らない、面白い事がたくさんある。
好奇心を刺激されたら見にいかない訳にはいくまい!
同じ「桜を見に行くという行為」でも先の先輩とは随分と趣を異にする様だ。
私を突き動かすのは風流や風情ではないらしい。
こんな私にもいつの日か訪れるのだろうか、「花に涙する」時が…