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今月のエッセイ

2010.2.2 「山の鬼」松本晶





まるで「鬼」のようですが、これはニホンカモシカの頭骨です。

福島県出身で明治生まれの祖父は、ニホンカモシカのことを「ヤマベコ」と呼んでいました。
これは実に的を得た呼び名で、そのとおり、ニホンカモシカはシカではなくウシの仲間です。
冬毛のニホンカモシカは特に毛足が長く豊富で、驚いて緊張すると長い毛が全体的に逆立ち、頑丈な脚と蹄とあいまって本当に、
勇ましい牛=鬼のように見える時があります。

短く鋭い角は洞角(どうかく・ほらづの)と言って、頭骨から伸びた骨に堅いケラチン質の鞘がかぶったもので、オスにもメスにも生えます。
滑らかに後方に反った角の鞘は、昔からいろいろな道具に加工され利用されてきました。
代表的なカモシカ角の民具としては、その形状から、擬餌針・泥かき棒・縄通し(縫い針)などがあります。(画像の民具は、俵か魚網類を編むのに昭和初期頃まで使われていたものと思われます。)

ニホンカモシカは、かつて絶滅寸前まで追い詰められた幻の動物でした。

最初の大きな危機は、明治維新後、封建社会における生活上の様々な制限が解かれたことによって激増した俄か猟師による大量捕殺でした。 自由を謳歌した明治の日本人たちの影で、山野の生き物たちの苦難の歴史が始まったと言っても過言ではないようです。

昭和9年に天然記念物に指定されても、その後の大戦と物不足の影響で半ば公然と密猟が行われ続けました。
昭和30年に特別天然記念物に格上げされ、ようやく現在に至ってニホンカモシカはその生息数を回復し、絶滅の危機を乗り越えました。
今や、地域によっては、市街地にまで姿を現し、農作物被害を減らすための害獣駆除対象になるほどの厄介者扱いです。

ニホンカモシカに限らず、人の歴史と経済の波間で好き勝手もて遊ばれてきた野生の「命」は数限りなく存在してきましたし、これからも存在し続けるでしょう。

山の「鬼」として、遠い昔の日本人がその存在を畏怖しつつともに生きてきたニホンカモシカ。
孤独と平和を愛するヤマベコは、他の野生生物同様、今となっては人の動向一つで消えてしまうかもしれない、まさに「幻」の存在であることに変わりないのかもしれません。