Essay

2010.12.1

『インディラのこと』安在 惠

 一昨年(2008年)5月3日、毎年恒例の「植物画コンクール」展を観るため、上野公園の国立科学博物館(科博)に出かけた。科博は、その前年、リニューアル工事を終え、旧館は日本館、新館は地球館となり、展示スペースが広がり、より充実した見ごたえのある博物館となっている。奥まった場所の会場へ到る地球館1階は、昆虫から巨大哺乳類まで、さまざまな標本類が展示されており、その一角にアジアゾウの骨格標本がおかれている。そのゾウの名前は「インディラ」と記されている。
 その名前を「発見」したとき、驚きとともに、懐かしいものに出会った喜びをふくむ複雑な気持に襲われた。そうした感情を抱くには、当然それなりの理由がある。

 インディラは、27年前の「1983年8月11日午前1時42分、推定49歳」で亡くなった。
インディラは私より6歳年長ということになる。いま、このことを古い新聞の切り抜きで再確認し、当時、インディラの死を知ったとき短い文章を書いたのだが、それからの歳月の流れにも感慨を覚える。そのときの文章が見あたらないこともあり、あらためてインデ
ィラのことを私なりに整理し、記録しておきたいと思う。

 手元につぎの2冊の本がある。これらの本などからの引用が多くなることを、あらかじめお断りしておきたい。
 ①「インディラとともに 上野動物園ゾウ係の飼育記録」川口幸男著
(1983年大日本図書刊) (以下「川口本」と記す。)
 ②「物語 上野動物園の歴史 園長が語る動物たちの140年」小宮輝之著
(2010年中央公論新社刊) (以下「小宮本」と記す。)


 インディラの死の40年前のことになる。「1943年7月、帝都防衛の強化を理由に東京市は東京府に併合され、東京都が発足した。8月16日、大達茂雄長官により、27頭の猛獣処分命令が下された。この猛獣処分は軍の命令で行われたように誤解され、後世に伝わって
いる。」「多くの動物は薬殺したが、3頭のゾウだけはどうしても薬入りの餌を食べなかった。」「毒餌を食べない2頭を餓死させるための絶食は、8月25日から始められ」「ワンディーは絶食18日目の9月11日、トンキーは30日目の9月23日に息絶え死亡した。」
 上記は、小宮本からの引用だが、もう1頭のゾウのことは書かれていない。川口本には小学校2年生の教科書に載っている「かわいそうなゾウ」という短文について書かれている。「これは、第2次世界大戦末期の1943年、上野動物園の人気者だったトンキー、ワン
リー、ジョンの3頭のゾウが、もし動物園が空襲を受け、おりから逃げ出したりすると、住民が危険だという理由から、他の猛獣たちと共に殺されてしまう話です。この文章を読んだ小学生たちから、たくさんの感想文が動物園やゾウ係あてにとどけられています。感想文は決まって、「殺されたゾウがかわいそうです。もう二度と戦争はいやです。」という内容です。」
 この悲惨な事実があったとき、私は3歳であり、樺太におり、知る由もない。しかし、動物園のゾウを、とりわけインディラについて語るとき、忘れてはならないことであるとの思いがつよい。

 「終戦後」「上野動物園の近くに住んでいる子どもたちは、動物園に遊びに行ってもゾウがいないのに失望」「この思いは、東京中の子どもも同じです。当時、日本には名古屋市東山動物園にエルドーとマカニーという2頭のアジアゾウがいるだけでした。」「1949年5月、上野動物園のある台東区の子ども議会は名古屋市東山動物園からゾウを一頭借りようと決議」「上野動物園と東山動物園は真剣に協議しました」が、結局「技術的に困難」ということで「この話はご破算になりました。」
 「しかし、ゾウを見たいという子どもたちの願いは、新聞などでもさかんに報道され」「このニュースを読んだインドの貿易商社が橋わたしとなり」インドの「ネール首相は、ゾウを日本の子どもたちに贈ることを約束してくれました。」そして「5年前に捕えられ、森林で材木運びをしていたメスのゾウが」「たくさんのゾウのなかから選ばれ」「ネール首相は、このゾウに自分の娘の名前をとり「インディラ」と命名し、盛大な出発式のあと日本に送ったのです。」 (川口本より)
 1949年9月23日、インディラが東京・芝浦桟橋に到着し、25日午前0時、芝浦を歩いて出発し、夜中の2時40分上野動物園に到着した経緯は小宮本に詳しい。

 「さて、日本に到着したインディラは、」「最近のパンダの来園にまさるとも劣らぬ大歓迎を受け」「インディラと動物園のようすは、新聞などによって全国の人びとにくまなく知られるようになり」「今度は東北や北海道の子どもたちから、インディラをわたしたちにも見せてください、と手紙や嘆願書が次つぎと園長や都知事あてにとどけられました。」「子どもたちの言うとおりインディラは日本の子どもたちにプレゼントされたゾウです。」「中部から関西方面には、名古屋の東山動物園に2頭のゾウがいますが、東北や北海道にはゾウはいません。そこで、これらの地方の人びとにインディラを見てもらうため、東京都は他の動物たちいっしょに、大規模な移動動物園を計画しました。」(川口本より)
 1950年「4月28日にはインディラを主役に、マントヒヒ、ヒグマ、クジャク、オウムなどとともに移動動物園が出発した。」「2両の大型貨車を改装し、一両をインディラ専用にして、いっしょに寝泊りする飼育係用の簡易ベッドも備えてあった。」「静岡を皮切りに」「甲府、松本、長野、新潟、山形、青森、札幌、旭川、函館、秋田、盛岡、仙台、福島、宇都宮、水戸を経て、10月1日に前橋から上野に戻った。」(小宮本より)

私のアルバムに、白黒の小さなゾウの写真がある。学校が希望者に販売したもので、画
面にフィルムを引っかいて書き入れたと思われる「インデラ嬢」という文字が入っている。
その写真には、偶然のことなのだが、小学4年生の自分が写っているのである。函館の五
稜郭公園で移動動物園が開かれたとき、各クラスから絵を描くのが好きな児童が「派遣」
されたのであった。私のとなりに別のクラスのI君がおり、I君とはその後、中学・高校を
通じ美術部の仲間であった。もう1枚、倍大の写真は「昭和25年(1950年)8月5日」と日
付がある何かの記念写真で、半そで半ズボン、10歳の自分の胸には大きなゾウのバッジが
誇らしげに付いている。

 インディラが1983年8月11日に亡くなったときの様子は、獣医師で、多摩動物公園、上野動物園の園長などもされた増井光子さん(今年7月11日死去)の、当時新聞に掲載された文章から抜書きしておきたい。「彼女の急変を知らせる電話を受けて、真夜中にゾウ舎にかけつけた目に映ったのは、小山のようにくずおれて、ふいごのように大きく深い息をついている姿だった。」「せめて少しでも呼吸が楽なようにと、酸素吸入器が用意されたが、これも巨体の前にはオモチャのようにみえる。それでも意味が分かってか、彼女の鼻が酸素が流れ出るゴム管をつかむ。眼球の反射をみようと、彼女の目をみた時、うつすらと涙がにじんでいた。」「最後の死闘2時間、呼吸は次第に弱まり、ついに蝋燭の火がフーっと消えるように、インディラは死んだ。」(なお、川口本のあとがきには詳細が記されている。)

 小宮本につぎの記述がある。
 「終戦後、荒廃した日本で人々の心に暖かい慰めを与えたインディラのために、(1983年)9月20日には慰霊祭が、駐日インド大使をはじめ多くの関係者を招き、しめやかにおこなわれた。インディラの死体は明治大学農学部に引き取られ、骨格標本として保存されていたが、1996年2月に国立科学博物館に寄贈され、研究施設である新宿分館に収容された。
2004年11月にインディラが長きにわたり過した上野の地に戻り、新装なった科学博物館地球館に展示されている。」

 私は、科博に行けば、インディラに会え、10歳の少年時代に運んでもらえるのである。

 我家のアルバムにはもう1枚、インディラの写真がある。1976年4月17日の日付があり、私が3歳の息子を抱き上げている背景に、インディラがいる。亡くなる7年前の平和な日々のなかの、元気な姿である。(完)

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